空軍技術研究所

〜その41〜                                           


日記 皇紀2664年9月18日 相澤哲治

木型屋に出かける。
ぷうんと木の香り。
油臭いウチの現場に比べれば随分といいなあ、などと考える。
「お、だいぶ進んでるな」
覗くと親方が角材にペーパーを巻いて、キャノピーに近いあたりの仕上げをしていた。
「あ、相澤さんご苦労さんです」
「いいよいいよ、続けてくれ」
ひょいと頭を下げて仕事に戻る。
しばらくその姿を見つめていた。
真剣な、それでいて子供のような目付きだ。
自作とおぼしきRゲージを持ってきて、今仕上げていた部分にあてる。
薄目で隙間を確認しつつ、あちらこちらに違った形状のゲージをあてていく。
ひとしきり見て、そこで一段落したようだ。
「いやあすいません。お待たせしました」
「勝手に来たわたしが悪いんですよ」
その後しばらく扇風機で風をあてて線香の煙をたなびかせるという昔ながらの手法で気流の乱れなど見ながらしばし雑談をした。

「もう相澤さんとも何年になりますかねえ」
言われて考える。
そういえば初めて会ったころは、まだお互い白髪もなくて師匠についてスパナやハンマーを投げつけられていた。
俺も旋盤ひとつ満足に扱えず、彼は粘土ばかりこねていたような記憶がある。
師匠同士が仲が良く、同年代というのもあって顔なじみになった。
かといって連絡を取り合い、休みに出かけたりすることはなく、あくまでも仕事上の付き合いではあったが。
それでも年をとるにつれたまには飲みに出かけて、仕事の愚痴のひとつも言い合うようになり、空技研に移る時に無理を言って北海道に連れてきてしまった。
「ああもう何年になるか数えても怪しくなってきましたね」
「でもやはり最初に組んだ仕事は忘れられませんね」
「ええまったく」

車のボディなどで組むことが多かったが、一度妙な仕事が回ってきた。

それは飛行機の主翼だった。
俺がやったのはフレームで、胴体へのジョイントの加工だった。
木型屋は主翼全体の木型を作っていて、その時は慣れない仕事に四苦八苦しながら、お互いの師匠の助けも借りつつなんとか仕上げた。
その飛行機は新品じゃなくて改装だった。
もともとは陸軍の初等練習機として使っていたもので、陸軍航空工廠は何を思ったのか発動機を中島の2800馬力に換装し、主翼を炭素繊維主体に、20mm機関砲一門、吊り下げ式のロケットポッドなどを着けられるようにしてしまった。

おりしもインドシナ紛争が片付いて、ソ連が南下政策を強化するのではないかと言われていた時代だ。
満州空軍には新型機がきらびやかに並べられたりもした。
北海道の各師団は演習にも余念がなかった。
そんな中、朝鮮半島は宙ぶらりんになってしまった。
防備しないのは心もとないが、満州と精強な在満戦力が盾となっているおかげで注力も必要がない。
そこで誰が思いついたのか知らないが、練習機を武装して配備すればよいとなったらしい。
あとはいつものような泥縄だ。
武装するには出力が足りんから、中島にターボエンジンを作らせる。
重量も超過気味なので主翼を軽くしてみよう。
できあがった機体は試験を経て、朝鮮半島の各基地へと配備されていった。
整備性もよく燃費もよい、操縦もしやすいと評判は上々で、今も元気に現役だ。
陸軍では「キ343」、空軍では「朝鷹」という名称だ。
制式の戦闘機、攻撃機でプロペラ機が現役なのももう珍しくなってしまった。

「ねえ相澤さん、ぼくは思うんですが、プロペラ機はすっかり主役じゃなくなってしまったが、これからもなくなることはない。ぼくらもそんな風に仕事に関わっていけたらいいですね」
「わたしはそうは思いません。われわれはまだまだ現役ですよ。いくら時代がすすんだって飛行機は羽根が生えてるもんですよ。羽根の作り方を若い奴らにきちんと教えてやるのがつとめだって思います」
「なるほどねえ。枯れるにはまだ早いってワケですね」
考えてみれば対潜哨戒機や飛行艇、輸送機なんかはまだまだプロペラ機が多い。
速く飛ぶことだけが飛行機の意義じゃないってことだ。

うちの大将もすっかり忙しくなってしまったので、現場はすっかり俺が預かっている。
信頼して預けられる、そう思ってくれるのはありがたい。
あの人はまだ若い。
現場に一生を捧げるのもいいが、あの人の行きつく先は一介の職人ではないような気がする。
職人は仕込めば結構モノになるヤツが多い。
それとは別の生まれつき持ってるものがある人間なんじゃあないかって思えるんだ。
それがなんだか俺あたりにはさっぱりわからんがな。

木型屋とそのままモックアップへの展開を相談することになった。
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